密教や真言宗については何も知らなくても、「お大師さん」といえば大半の人が弘法大師空海だとわかるほど宗派を超えた名僧として知られる空海は、宝亀5年(774年)に讃岐の国(現在の香川県)の豪族の家に生まれました。
幼名は真魚(まお)。非常に賢い子どもで12歳の頃にはすでに『論語』などを勉強、15歳で都に上がり、高名な漢学者であった叔父の阿刀大足(あとのおおたり)について学んだのち、18歳のときに当時の国立大学に入学を許可されます。今で言えば将来を期待されるエリートだったわけです。

 ところが勉学の間に仏教の教えにも接した空海は、しだいに出世だけを目指す大学での勉強に疑問を持ち、仏教へ傾倒していきます。そして、ある高僧から『虚空蔵求聞持法』(密教の修法の一つで、飛躍的に記憶力を高めるといわれる法)を習ったのを1つのきっかけに、周囲の反対を押し切って大学を中退してしまったのです。
大学を辞めた空海は公に認められた僧侶ではなく私度僧としての道を選び、吉野山や大峯山など険しい山々で求聞持の修行を続ける生活に入ります。四国の室戸岬で虚空蔵菩薩との一体化を体験したのはこのときのことです。

 こういう修行の生活を通してますます仏教のすばらしさを実感した空海は、儒教、道教、仏教の3つを比較し、仏教の優位を示した論文を書きます。これが24歳のときに書いた初めての著書『三教指帰』です。空海という僧名も、この前後に正式な得度を受けて授かったとされていますが、確かではありません。

 山岳修行を続けながら仏教を極めようとしていた空海は、あるときそれまで1度も見たことのなかった7巻の経典に出会います。「ここに求めていた本当の教えがある」。その経典こそ、密教の根本経典『大日経』だったのです。しかし、当時の日本で密教はさほど重要視されておらず、正式な密教を学ぶためには唐に渡るしか方法はありませんでした。

<<空海

 入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられたのは31歳のときでした。延暦23年(804年)の遣唐使船団に乗った空海は一路、唐の都・長安を目指します。同じ船団には最澄の姿もありました。

 長安で密教を学び始めた空海は、何人かの高僧に教えをうけたのち青龍寺に恵果和尚を訪ねます。恵果和尚は密教が盛んだった当時の長安でも指折りの高僧といわれていた人物で、すでに唐内外から集まった千人もの弟子がいました。

<<恵果阿闍梨

 それにかかわらず、空海にあったとたん「あなたが来るのを待っていた。私の命はもうわずかしかないが、密教を伝えるにふさわしい弟子がいなかった。早く道場に入り密教の正統を継いでほしい」と喜び、その日のうちに師弟の縁を結んだのです。

 青龍寺に入った空海はわずか数ヶ月で恵果和尚から密教のすべてを受け継ぎ、阿闍梨の位を授かりました。こうして空海は密教の正統な継承者となったのです。死の直前に恵果和尚は曼荼羅や膨大な数の経典、密教の法具などを空海に与え「すべては伝えた、早く国に帰り人々に教えを広めなさい」と帰国をすすめました。有能な僧侶として還学生(短期間の留学で帰国を許される)の立場にあった最澄と違い、空海は20年間の在唐を義務付けられた私費留学生だったのですが、師のすすめに従い2年余りの滞在で帰国を決意し、大同元年(806年)10月、帰国しました。

 それから3年後の大同4年(809年)に空海は朝廷に認められ、京都の高尾山寺(現在の高尾山神護寺)に入ります。3年間の空白があるのは、留学20年の義務を勝手に短くしたことが問題となったからですが、結局はそんな違反などとるにたらないほど空海の持ち帰ったものが大きかったのです。

 時の天皇はその後空海と深い親交を持つことになる嵯峨天皇。空海は36歳になっていました。高尾に初めて密教の壇を開いた空海のもとにはたくさんの僧侶が入壇してきました。空海より先に帰国し、すでに天台密教を開いていた最澄もそのひとりで、最澄は空海が唐で伝授された密教の深さを素直に認め、進んで教えを求めたのでした。

 密教の第1人者となった空海は、朝廷のために国家を守る修法を行う一方で『即身成仏儀』『十住心論』『般若心経秘鍵』など数々の著作をし、密教の布教にエネルギーを注ぎます。この間、弘仁7年(816年)には京都・東寺に密教の根本道場を開きました。

 このように京都を中心に密教の土台を作った空海は、それだけでなく全国を行脚して布教とさまざまな社会事業を展開します。「大師の井戸」「大師が掘り当てた温泉」など、各地に数多くの空海の足跡が残っています。そのすべてが史実ではないにしろ、ただ教義を教えるだけでなく、社会事業に積極的に取り組んだことが空海の布教活動のひとつなのです。

 空海は承和2年(835年)3月21日に62歳でなくなりました。その数年前から高野山にこもり、五穀を断ち、瞑想しながら静かに息をひきとったと伝えられています。真言宗では亡くなったのではなく、今でも瞑想を続けていることから『入定』とよんでいます。

 弘法大師という称号は入定から86年後の延喜21年(921年)に朝廷から与えられたものです。

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