○どうやってお経が残されたの?
お経はお釈迦さまの教えに違いないが、文字は無く口伝によって伝えられていた。
その為、人々に広めるために暗唱する必要があった。お釈迦さまの亡くなった紀元前486年の夏、十大弟子を中心に約500人の高僧が、北インドの都である王舎城郊外の七葉窟に、経典編纂のために集まった。これが「結集」というお経編集の会議である。
しかしこのときも文字では残されず耳で確認しただけだった。
統一されたお経が文字に書き写されるようになったのは、その数百年後といいわれている。
○お経は何語で残されたの?
文字になったお経は当時のインド語だったとされているが、現在は残っていない。
現在残されている最古のお経は「パーリー語」である。
サンスクリット語(梵語)が経典書写のための我語だったが、広く一般に知られるパーリー語がお経には用いられた。

    写真 サンスクリット語が書かれている「貝葉経」


○お経の内容は?
内容別に分類すると以下のようになる。これらを「三蔵」という。

お釈迦様の教えをまとめたもの
仏教徒としての行動規範(戒律)をまとめたもの
<代表的なものに五戒がある>
@不殺生戒
A不倫盗戒
B不邪淫戒
C不妄語戒
D不飲酒戒
経や律の内容を研究したり、注釈をまとめたもの

※西遊記の三蔵法師は三蔵を知り尽くした高僧に対しての敬称である。また、教義別に分類すると以下のようになる。

小乗仏教 小乗経典:お釈迦さまが弟子たちに直接説いた教え
大乗仏教 大乗経典:在家信者へもお釈迦さまの教えを説くために作られた経典
密教 密教経典:基本的には大乗経典に含まれるが内容は密教の奥義を説いたもの

○インドから中国へ伝道

お釈迦様の教えを受け継いだ弟子たちは精力的に伝道を続け、その教線は次第に伸びていった。それと同時にお経もその地域の言葉に翻訳されて伝わることになる。なかでも中国では積極的にお経の翻訳事業が進められた。

中国の四大翻訳家

鳩摩羅什
(クマラジュ)
350年中央アジアのクチャ国生まれ
父:インドの出家僧 母:クチャ国王の妹
7歳で母とともに出家し、インドで小乗仏教と大乗仏教を学んだ
20歳で受戒し積極的に教下活動を行った
その後中国に渡来し漢文も勉強
翻訳のほかに漢訳の訂正作業も行った
渡来から8年で35部294巻のお経を翻訳した
真諦
(シンタイ)
西インド出身の高僧、インド名はバラマールタ(500〜569年)
中国南部の梁国の王が仏教を求めていることを知り、584年240包みのお経をもって中国に渡る
訳した『唯識』『具舎』は中国仏教界に大きな影響を及ぼした
玄奘
(ゲンショウ)
中国北西部の洛陽地方に生まれ、幼少より寺に入る
20代であらゆる仏教学を修める
29歳でインドへ国法を犯して単身旅に出る
17年の旅を終え、520包みのお経を持ち帰る
皇帝の庇護のもと翻訳に専念
600巻におよぶ大般若経の翻訳は有名で、中国仏教は飛躍的に発展
『大般若経』の要点を262字で示した『般若心経』も玄奘の訳である
不空
(ふくう)
705年インド西域の生まれ
叔父に連れられ中国へ渡る
密教の第3祖である金剛智の弟子となる
20数年の中国生活の後、スリランカでさらに密教を深め、インドを遊歴し、多くの密教経典や法具を持って再度中国に渡った
以後『金剛頂経』など密教経典を中心に110部143巻のお経を訳出した
なお、不空は密教における第4祖として敬われている



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