空海と同時代を生きた最澄は、空海の真言密教(東密)に対して天台密教(台密)の祖となった名僧です。密教といえばともすれば真言密教が主流とされますが、それは僧侶として最澄が空海より劣っていたということではありません。歩んだ道が違った結果、密教では空海がよりウエートを占めたのです。

 最澄がいかにすぐれた僧侶だったかは、比叡山で修行を積んだ僧侶の顔ぶれをみればよくわかります。浄土真宗をおこした親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、日蓮宗の開祖日蓮など、現在の日本仏教の各宗派の祖となった僧侶の多くは比叡山から巣立ったのです。

 最澄は神護景雲元年(787年)に近江(現在の滋賀県)で生まれました。年齢は空海より7歳年上になります。12歳で国分寺に入り、15歳で得度、19歳のときにはすでに朝廷が正式に認めた僧侶になっていました。役人へのエリートコースを嫌って山に入った空海とは違い、公的に認められた僧侶としての道を順調に歩んでいたのです。



 しかし、その最澄も僧侶になったとたんに、その立場をあっさりと投げ出してしまいます。当時の奈良仏教の金権体質に嫌気がさしていたとき、中国から伝わった天台宗の経典を知り、その修法『天台止観』の道をきわめようと比叡山に入るのです。

 山にこもって3年目、彼のもとに集まった修行僧とともに比叡山寺(現在の延暦寺)を開きます。そしてさらに最澄の求道の生活は10年近く続くのです。

 延暦13年(794年)、奈良から京都への遷都を計画していた桓武天皇が最澄のもとを訪れました。天皇は新しい都を守護する聖地として比叡山を選んだのですが、これは最澄の僧侶としての純粋さが世に認められたことを意味しています。

 これをきっかけに朝廷に受け入れられた最澄は、延暦23年(804年)に遣唐使に加わり、公費の還学生として天台仏教の奥義を求めて唐に渡るのです。37歳のときでした。

 空海とは違い、「多くのことを学び、可能なかぎり早く国に戻ってそれを国のために役立てるというのが還学生の立場です。

 唐に渡った最澄は1年たらずの間に天台山で精力的に天台仏教のおうぎを吸収し、さらに順暁という密教僧から密教も学んで帰国します。同じ船で唐に渡った空海よりも1年早く日本に密教を持ち帰ったことになります。

 しかし、最澄が学んだ密教は期間が短かったことと、前行とよぶ基本的な修行を体験していなかったことから、正統とするには不十分なものでした。

 数年後、朝廷から空海の扱いについて相談を受けた彼は、空海の持ち帰った経典や密教法具を見て自分の不備を認め、空海の受け入れを進言しました。

 そればかりでなく最澄は空海を密教の師と立てて入門さえしたのです。

 当時の最澄は朝廷に重んじられている高僧ですでに天台宗の教主、これに対して空海は年下の無名の留学生です。この決断には驚かされます。教えに対しては終生、純粋で生真面目だった最澄だからこそできたことです。

 ただ、これにも限界がありました。密教経典を最澄に貸していた空海が、最も重要な経典のひとつである『理趣釈経』の貸し出しを拒否したのです。その理由は最澄が密教の行を経験していないからでした。しかし最澄も立場上、密教の修行僧としての再スタートは切れません。
 
 これ以降、最澄は空海との関係を切り、比叡山をベースに弘仁13年(822年)56歳で亡くなるまで天台宗の隆盛に全力をつくしていくのです。

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